蘭学の里・中津と中津城顕彰碑 

 平成15年9月、中津市の三クラブ会長会が「蘭学の里・中津と中津城」顕彰碑を中津城前に設置する事を提案。地区補助金委員会に申請し、交付された助成金と三クラブの浄財で企画建設された。この企画は三クラブ社会奉仕委員会の顕彰碑プロジェクトが担当し、設置に尽力してきた。今後、市民に蘭学の里・中津が定着し、まちおこし、地域の歴史の再認識に寄与できれば幸いです。除幕式が行われた平成16年3月13日には中津レクリエーション協会主管のもと、「蘭学の里・中津ウォークラリー」も開催された。中津ロータリークラブはこれらの事業を創立50周年記念事業として取り組んだ。
蘭学の里・中津と中津城顕彰碑
 中津藩は、前野良沢から福澤諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした藩である。

 中津藩主三代目・奥平昌鹿(一七四四〜一七八〇)は、母の骨折を長崎の蘭方医吉雄耕牛が見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。明和七年(一七七〇)、藩医の前野良沢を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。良沢は、藩主の期待に応え、オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白等と翻訳し、蘭学の開祖となった。その成果は安永三年(一七七四)、杉田玄白、中川淳庵等により『解体新書』として出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。

 中津藩主五代目・奥平昌高(一七八一〜一八五五)は、薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪(一七四五〜一八三三)とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ語を学んだ。文化七年(一八一〇)に、日本で最初の和蘭辞書『蘭語訳撰』を、文政五年(一八二二)には、日本で三番目の蘭和辞書『中津バスタード辞書』を出版し、蘭学の普及に努めた。これらの辞書に関与した蘭学者は、前者は神谷弘孝、後者は大江春塘(一七八七〜一八四四)である。二冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称され、日本各地で活用されたのみならず、出島やオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、大いに利用された。文政二年(一八一九)、昌高は、藩医村上玄水(一七八一〜一八四三)による九州で史料が残る最初の人体解剖を許可した。玄水は、解剖の詳細な記録を『解臓記』として残し、生家は、三〇〇〇点の医学史料を蔵する「村上医家史料館」として、中津市諸町に保存公開されている。

 嘉永二年(一八四九)、辛島正庵を筆頭とする中津の医師十名は、長崎に赴き、バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗を入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功した。この年は種痘元年ともいわれ、日本で最も早い時期の成功であった。なお、辛島家では、種痘を含めた四〇〇点を超す医学史料が発見されている。種痘の成功により、多くの子供の命が救済された。この事に感動した住民からのボランティア基金により、文久元年(一八六一)、勢溜に「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。明治に入り「医学館」は、奥平家が、年に米二百二十五俵を提供して、西洋医学教育の必要性から「中津医学校」へと発展的に改称された。

 明治四年(一八七一)、中津医学校校長に就任した大江雲澤(一八二二〜一八九九)は『医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す』という医訓を示し、外科医としてのみならず、教育者としても優れた業績を残した。市内鷹匠町にある大江家からは、世界で初めて全身麻酔による手術に成功した華岡青洲の肖像画や多数の華岡流外科手術図が発見された。その他に『解体新書』や『重訂解体新書』なども発見されている。当時の中津藩から華岡塾の大坂分塾に五名の医師が派遣され、学んでいたことが明らかになった。前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に至ってもなお続いていたことが伺える。

 中津出身の外科医として、陸軍・軍医学校校長を務めた田代基徳(一八三九〜一八九八)がいる。松本良順(一八三二〜一九〇七)等と医学会の前身である「医学会社」を起したり、『外科手術』や『医事新聞』を発行するなど幅広い活動を行った。基徳は、大坂にある緒方洪庵の適塾に学んだ。そこでは中津から福澤諭吉をはじめ十一人が学び、幕末の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。基徳の養子田代義徳(一八六四〜一九三八)は初代東大教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。さらに、日本の歯科学の開祖小幡英之助(一八四二〜一九〇九)や、近代医学史上に残る心臓の刺激伝導系の発見者田原淳(一八八三〜一九五二)など、中津には次々と医歯学のパイオニアが出現した。

 洋学史上に残る中津人の活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと考えられる。時代に対して先見の明があり、人材育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福澤諭吉によって行われた。諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を成し遂げた苦労を顕彰する為、杉田玄白が晩年著した『蘭学事始』を、明治二年(一八六九)に復刻させた。その序文の中で諭吉は -良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れない- と述べている。

 中津城には中津の「蘭学の光芒」を示す史料が数多く展示されている。


平成十六年三月十三日
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