卓  話 

2016年3月2日

ゲスト卓話

「村上田長と中根時雄 ―近代下毛郡の医療と医学の物語―」

大分県立先哲史料館主幹研究員 櫻井成昭氏


1.村上田長の足跡(抄出)
・1839(天保10)年:筑前国秋月藩の御典医杉全健甫の三男として生まれる。
・1860(万延元)年:村上家8代春海の養子となる。
・1865(慶応元)年:家督相続し田長と名乗る。
・1867(慶応3)年:大坂医学校へ進学。
・1868(明治元)年:戊辰戦争に軍医として従軍。
・1874(明治7)年:耶馬渓に学舎建設を計画。
・1876(明治9)年:『田舎新聞』を創刊。
・1885(明治18)年:大分中学校長に就任。
・1886(明治19)年:玖珠郡長に就任。
・1891(明治24)年:山国川で解剖を実施。
・1906(明治39)年:没。

2.中根時雄の足跡(抄出)
・1865(慶応元)年:三河国岡崎藩家老中根家に生まれる。
・1879(明治12)年:岡崎病院薬局に勤務。
・1886(明治19)年:済生学舎に入学。
・1889(明治22)年:済生学舎を卒業。
・1890(明治23)年:医術開業免状を受領。下毛郡城井村で開業。
・1899(明治32)年:城井高等小学校医を委嘱される。
・1913(大正2)年:城井村議会議員に当選。
・1920(大正9)年:下毛郡医師会副会長に就任。
・1927(昭和2)年:大分県医師会評議員に就任。
・1937(昭和12)年:没。

3.幕末・近代初の医学と医師
【長崎と大分】
江戸時代、長崎は外国の学問・文化受容の窓口であった。医療や医学でも同様で、シーボルトは新しい学問を伝えた人物の代表。
【大坂と大分】
江戸時代後半から、大坂も医療や医学の拠点であった。緒方洪庵の適塾は、その代表。幕末、大坂に創立された医学校は、長崎の外国人医師が教えた。村上田長は大坂で学んでいる。
 ※大分の医療や医学の進展において、大坂も重要な地である。
【戊辰戦争と村上田長】
中津藩医・村上田長(1838〜1906)も戊辰戦争に従軍した。「非常日記」という日記を残している。
【1枚の写真】
村上田長と佐野雋達(1841〜1913、杵築藩医)が映った写真で、これは戊辰戦争後に大阪で撮影されたもの。
 ※中津藩と杵築藩が「薩長側」として出兵していたことがわかる。

4.近代の医学と医師
【中根時雄と済生学舎】
時雄は、長谷川泰(1842〜1912)が設立した済生学舎を卒業。「済生学舎」の名は「済生救民―貧しい人々を病気から救済する―」という教えをもとにする。
【医師の免許制】
明治時代以後、時雄の足跡にあるように、医師は免許制になった。明治になり、医療と医学に新しいシステムが生まれた。
【トラホーム】
目の病気で、明治時代の地域医療ではトラホームの治療と予防が重要であった。学校医でもあった時雄は、トラホーム対策に力を注いだ。
【スペイン風邪】
下毛郡では、大正7年(1918)に大流行。日記には、押しかける患者の診察のために徹夜をしたこと等が記されている。
 ※ここに地域の医師として、責任を果たそうとした姿を窺うことができる。
【地域の医療】
時雄は、診察料未払の人―受診ができなくなる―を少なくし、より多くの人が診察をうけられるようにと、戸数を患者数の単位とした。

5.「医」のこころ
【医】
この漢字には、「なおす・いやす」という意味がある。人々を治す医療、その基盤となる医学、医療の担い手の医師をまとめた言葉でもある。
【村上田長と医】
『田舎新聞』の刊行など、医師としてだけでなく、さまざまな分野で力を尽くした田長に、社会へ奉仕する「こころ」の存在をみることができる。
【中根時雄と医】
生涯を城井村の医師として過ごした時雄は、やけどの治療でも有名であったという。患者数を戸数で数えた時雄は、医師として社会へ奉仕しようとしたことが窺える。
 ※「医」のこころには、多くの教えや思いが込められ、受け継がれてきたといえる。
【下毛郡の医療と医学】
前野良沢らの仕事を含め、幕末・近代の医療の在り方を集約した地域ともいえる。
【医療と医学の物語】
人と人のつながり、受け継がれてきた知恵と知識、新しい知識と技術。これらが結びつきながら展開した。



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