卓  話 

2014年10月1日

ゲスト卓話

「城井神社について」

中津大神宮 宮司 長谷川保則氏


 宇都宮氏は栃木県宇都宮の出身。源頼朝の命令で、文治元(1185)年に平家残党討伐の為九州へ下向、豊前国と他6ヵ国を与えられた。1587年、秀吉の九州平定で豊前6郡(京都、仲津、上毛、築城、下毛、宇佐)は黒田に与えられ、宇都宮氏は四国伊予への国替えを命じられた。

【城井谷物語】
巳の刻(10:00頃)中津に到着し、直ちに甲斐守の館に入る。孝高(よしたか)父子出迎へ、民部(助)の御入り也とて、式台より下り作法正しく敬礼して相互の礼譲、事終へ、奥殿深く案内す。鎮房の手勢は一人も奥に入るを許されず、小姓・松田小吉のみ次の間に控えさせ、それにも兵を置いて守らせる。孝高は家臣に申し含めて、わざと刀を右の脇に置かせ、さあらぬ風を示し、鎮房の座に着くを見て、酒宴の数刻過ぎたる後、かねて計画の一人の侍が孝高の傍らに走りさま、誤って躓き倒れ、足にて刀を蹴りしかば、孝高声荒く「推参者(無礼者)」と叱りつけ、刀を左脇に取り直す風情(ありさま)にて抜き放ち、真向より鎮房公を斬りつけたり。公も指添押取り持ち、如水卑怯なりと一喝して抜き放して立ち向かえど、右手左手より人々立ち上がって斬り付けられ、数カ所の深手にひるむ所を黒田の家臣、曽我太郎兵衛組み付けて公の首を打落す。生年61歳。(一説に酒宴たけなわなる時、長政の家臣、曽我太郎兵衛蓬莱台を捧げ出で、その中に包蔵せる匕首(ひしゅ)(鍔のない短剣)を執りて直ちに鎮房を刺すとあり)この騒ぎに次の間に控えし松田小吉、刀を執って立ち上がり、奥の間に入らんとせしを、居合わせたる敵方数人立ち向かうを、小吉獅子の荒れたる如く右に斬り伏せ、左に突き入り、忽(たちま)ち8・9人を斬り伏せた。「若者と侮りて不覚を取るな」群がり来りて取り囲むをものともせず18人まで斬り倒し、目指すは長政一人なりと飛びかかりしが、力疲れ、眼暗みて多勢に包まれ、ついにここに討死す。時に18歳なり。その他の城井の諸士は別室に分かれて饗宴なりしかば、遠くにこの音を聞きつけ奮闘せしも事すでに後れ、各々戦死を遂げたる。是れ実に天正17年4月20日、宇都宮家18代豊前一国の守護として累代武勲赫々(かっかく)たる名門はここに全く滅亡し終わりぬ。ああ悲しきかな。

 黒田父子は鎮房を本丸奥庭に埋葬。殉難戦士の屍は二の丸に埋葬。霊威顕著なることあり、長政は深く鎮房、父・長房、祖父・正房の功績を称え、墓所に祠をたて城井大明神と称し、城の守護神とした。天正19年、黒田家が筑前に国替えされたとき、分霊を警固大明神の境内祭り、小鳥宮と称して福岡城の鎮守として崇めた。
 宝永2(1705)年、小笠原家が中津に入ると、城井大明神は城井大権現と改められ、鶴姫の霊を小犬丸千本松の磔(はりつけ)の地に祠をたて、宇賀神と崇めた。本丸の東すみに祠を立てたこともある。城内戦死者の霊を墓所の二の丸稲荷神社に祭り、広津広運寺にて割腹した諸士の霊を京町の東学院にも祭った。
 享保2(1717)年、奥平家入城。元文3(1738)年、公没後150年執行。明治4年、廃藩置県となり古来の祭はすべて廃止。神仏分離、廃仏毀釈により東学院の奉仕者は還俗し、祭祀を営む者なく荒廃。明治12年、神社明細帳編成にも申請者なく脱漏となった。中津城は明治14(1881)年、中津大神宮の前身、神宮奉斎会が上の段をすべて買収、皇大神宮鎮座となる。当時の神職たちによって城井神社は石鳥居、灯篭など神社の体面を整え、神社編入願を明治43年に大分県に進達したが許可されず、明治44年、再び願書出せど許可されず、大正5年、三度試みたが不許可。この当時、政府の方針は無資力の小社は廃止・併合であった。ところが宇都宮家臣の子孫である衆議院議員・蔵内治郎作氏からの12,000円(現在の5,000万円)という巨額の寄付により土地を購入し、相当の基本金をもって改築を始め、大正8年、許可を得た。中津城にて討死した45柱も城井神社の隣に扇城神社として祭った。


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